経正都落

平家物語:経正都落 朗読mp3

平家物語巻第七より「経正都落(つねまさの みやこおち)」です。
平経正は都落ちに際し仁和寺の御室に琵琶「青山(せいざん)」を託します。暗誦してみました。


あらすじ

木曽義仲が京都へ押し寄せ、平家一門の人々は安徳天皇を擁して西国へ落ち延びます。

その中に皇后宮の亮経正(こうごうぐうのすけ・つねまさ)の姿がありました。 経正は、幼少の頃お世話になった、仁和寺の御室(おむろ)を訪ねます (御室とは仁和寺で一番えらい人の称号です)。

門前で経正は挨拶しますが、すでに甲冑を鎧い、武器をたずさえているので失礼にあたると言い、 御室への対面は辞退します。

御室は、「そのままでよい」と、経正を大床へ招きます。

経正は、郎党の藤兵衛有教(とうびょうえ・ありのり)から琵琶・青山を取り次ぎ、御室へ渡します。

このような名物を、戦の紛れの中に失うのはしのびない。 もし運命が開けて都に帰ることがあれば、その時こそ下し預かりましょうと、涙ながらに託します。

御室は、経正に泣く泣く歌を送ります。
あかずして 別るる君が 名残をば 後の形見に 留めてぞ置く
(意味)別れたくはないのに、そなたは去っていく。記念として、この琵琶を後々まで大事に取って おくぞ

経正の返事
くれ竹の かけひの水は変われども なほすみあかぬ 宮の内かな
(意味)庭の筧の水は流れ去り、既に昔の水ではありませんが、それでも澄んだ水であることに変わり ないのです。そのように、住み飽きることのない、都でございます (「水が澄む」と、「都に住む」を懸ける)。

経正が別れを告げて出ると、仁和寺の人々が涙ながらに見送ってくれます。 中にも経正が幼少の時、小師(こじ。歳若い僧)であった大納言法印行慶(だいなごんほういん・ぎょうけい)は、 桂川のはたまで経正を送り、歌を交わして別れます。

法印
あはれなり 老木若木も山桜 遅れ先立ち 花は残らじ
(意味)あはれなことだ。老木も若木も、やがて山桜はすべて散り、花はひとつも残らぬのだ

経正
旅ころも 夜な夜な袖をかたしきて 思えば遠く 我は行きなん
(意味)旅衣の袖を片方だけ敷いて、孤独な夜を重ね、思えば遠い旅に出ることだ

平家の赤旗を差し上げると、控えていた侍たちが集まり、 経正たちはほどなく都落ちの一行に追いつきました。

「経正都落」ついて

再録しました。経正の抑えたトーンの台詞が長く続くのが難しいです。「しみじみと読もう」とすると、単に「小さいか細い」声になっています。

経正と、仁和寺の御室の別れの場面です。
経正は「敦盛最期」で活躍する、大夫敦盛の兄です。

「御室」と言われている守覚法親王は後白河法皇の第一子であり、以仁王の 兄にあたります。「御産巻」では中宮徳子の安産の祈りを捧げています。

この頃貴族の子供は、寺社へ預けられ、学問や礼儀作法を学ぶ習慣でした。全寮制の学校のようなものです。

子供の頃遊び、勉強した、懐かしい仁和寺の風景を 経正はどんな思いで眺めたでしょうか。時に優しく、時に厳しかった御室、もう二度と戻ることのできない、子供時代の記憶。

琵琶「青山」を預け置くくだりは、涙なしには読めません。

平家物語には経正が主人公となる話が二つあります。「竹生島詣」とこの「経正都落」です。
前者は木曽義仲との戦いに際し、竹生島に参詣する話です。まだ平家の負けが確定していない時期ですから 余裕があります。
この「経正都落」は、ひたすら厳粛です。死にに行く者の悲壮感があふれています。

忠教都落」「維盛都落」と比較するとキャラクター性の違いが見えて面白いです。


ちなみに、
経正が行慶に送った歌
「旅ころも 夜な夜な袖をかたしきて 思えば遠く 我はゆきなん」 ですが、この「かたしきて」は百人一首の
「きりぎりす 鳴くや霜夜のさむしろに ころもかたしき ひとりかも寝ん」に あるように、愛しい人と別れ独り寝の寂しさをあらわす常套句です。

つまり、二人はそういう関係だったわけですね。


posted by 左大臣光永 | 木曽義仲の台頭

【発売中】はじめての平家物語〜木曽義仲篇

はじめての平家物語〜木曽義仲篇

院の御所法住寺殿を焼き討ちにした義仲は天下に孤立。後白河法皇は頼朝に義仲追討の院宣を下し、範頼・義経両軍が京都へ攻め寄せます。義仲が朝敵となったことで、それまで義仲に従ってきた者も次々と去っていきます。そんな中、股肱の臣たる今井兼平、樋口兼光、巴らはあくまで義仲への忠義をつらぬきます。 詳しくはこちら


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。