都遷

平家物語:都遷(一)朗読mp3
平家物語:都遷(二)朗読mp3

平家物語巻第五より「都遷(みやこうつり)」です。
治承四(1180)年六月三日、清盛は突如都を福原に移します。


あらすじ

治承四年六月三日、清盛は突如福原(現兵庫県神戸区)へ都を移します。
まだ三歳の安徳天皇、後白河法皇、高倉上皇、建礼門院徳子、摂政藤原 基通を始め、多くの公卿・殿上人が同行しました。

三日、一行は福原に入ります。池の中納言頼盛の宿所を皇居とします。
池の中納言頼盛は館を皇居として提供した恩賞として、正二位に叙せられます。

清盛は、いったん和らぎかけた後白河法皇への憤りを以仁王の謀反によって再び強めていました。
(以仁王は、後白河法皇の第二子)

後白河法皇を福原に連れて行き、周囲に板を打ち付けた小屋に押し込め、守護の武士を置きます。
人々はそれを「籠(牢)の御所」と呼び、清盛の恐れをしらぬ行いを忌々しく思うのでした。

神武天皇以来、都遷りは四十回近く行われました。
中でも京都は平家の先祖である桓武天皇が「平らかに安き都」と称した都。 平家にとっては特別大事にすべき都であるのに、一臣下の身である清盛ごときが強引に遷都してしまったのです。

京都の町は、次第に寂れていきます。
内裏の柱に、何者かが歌を書きました。

ももとせを 四かへりまでに すぎきにし 乙城(おたぎ)のさとの あれやはてなん
(意味)百年を四回分、つまり四百年もの間栄えたこの愛宕(乙城)の里も、荒れ果ててしまうのだろう

咲きいづる 花の都をふりすてて 風ふく原の すえぞあやふき
(意味)咲き出る花のように美しいこの平安京を捨てて、潮風がふきすさぶ福原へ行くのだ。その行く末が危ぶまれる。
「風吹く原」と「福原」をかける。

六月九日、徳大寺左大将実定を主席公卿として、新都の造営が開始されます。
ところが福原は山から斜面づたいにすぐ海になる狭い地形なので、九条まで区割りをする つもりが、五条までしかできませんでした。

播磨の印南野か摂津国の児屋野へ移るかという詮議が行われますが、いずれにしてもうまく 行くとは思えませんでした。

しかし土御門宰相中将通親卿は、三条の大路と十二の通門で都を開いたという例(長安)を引き、 五条あれば十分と強引に内裏造営を決定します。

清盛は五条大納言国綱卿に臨時に周防の国を与え、その収入で内裏の造営に当てるよう 計らいました。

この国綱卿は有名な金持ちでしたから、懐が痛むということはなかったのですが、 新帝即位後の大嘗会(だいじょうえ)も差し置いて、多額の税金を投入してまで こんな割りにあわない遷都、内裏づくりが行われたのです。

昔は内裏といっても質素な茅葺きで、何より民の生活を第一に考えていたのに、浅ましい話です。

清盛と福原京(ふくはらきょう)

清盛は福原の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる 港(現神戸港)を改修し、人口の島「経ヶ島」を作り、日宋貿易の拠点としました(「経島」)。

福原を中心に貿易国家を築こうという壮大なプランは、前々から練られていたようです。

それに加えて、天皇家を反対勢力が切り離そうとしたことが 福原遷都に乗り出させたものと思われます。
しかし都造りは5か月で挫折し、京都へ戻っています(「都帰」)。

「人形劇平家物語」では京都へ引き上げる輿の中で清盛が「クッ…!わずか半年で」とか悔しがっていたのが印象的でした。

都帰りの後も清盛はよほど福原への思い入れが強かったようです。
その遺骨は遺言により福原に納められます(「入道逝去」)。

福原京の夢は挫折しましたが、清盛が築いた基盤は後に国際都市・神戸として花開いていくのです。

参考文献
高橋昌明『平清盛 福原の夢』講談社選書メチエ

朗読について

延々と都遷りの歴史が語られるところは、よっぽどの歴史好きでないと、つまらんと思います。
しかし朗読するのは気持ちよかったです。
ゆっくり読んで後で編集することもできますが、それでは勢いとか微妙な呼吸が死にます。
ガーーとなるべく一息に読み切りたいところです。
コンプレッサーがかかりすぎて、耳障りです。機械に頼らず、人間の力で、 アナログの意地を見せるべきでした。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落

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