逆櫓

平家物語:逆櫓 朗読mp3

平家物語巻第十一より「逆櫓(さかろ)」です。
屋島の戦いのさなか、義経と梶原景時の間に船の運用について口論が起こります。


あらすじ

元暦二(1185)年正月、義経は院の御所でさらに平家を追討する意思を述べます。

屋島では平家軍が陣を固めていました。すでに都落ちから三年の時が流れ、全国で 半平家の動きが起こっていました。

女房たちは嘆き悲しみ、知盛は、累代の恩を忘れて多くの者が頼朝や義仲に従った ことを口惜しがるのでした。

義経、範頼は それぞれ摂津国渡辺(現大阪市)神崎(現兵庫県尼崎市)で船団を整えていました。

二月十六日、まさに出発という段になって嵐が起こり、船足を留められています。

そこで義経配下の武将達の間で、海戦のあり様について議論が起こります。

梶原景時は「舟に逆櫓を立てましょう」と主張します。
逆櫓とは、船尾と船首の両方に櫓(スクリュー)をつけることです。こうすることで通常は 前進しかできない船が後退も可能になるわけです。
しかし義経は「戦は前進あるのみだ」と主張。梶原と激論になります。
侍たちは、義経と梶原の間で同士討ちかと、騒ぎ合いました。

その夜、義経は嵐の中五艘の船で強引に出航します。
一晩中船を走らせ、普通なら三日かかるところを三時(6時間)で漕ぎ渡り、 翌日の早朝、阿波へ着きました。

義経、梶原の「逆櫓論争」

この時の遺恨が根を引き、梶原が義経を讒言するようになる…と、よく解釈される エピソードです。

朗読も梶原と義経の掛け合いが一番のポイントとなります。
「強引でハツラツとした義経」と「思慮深いが考えの暗い梶原」というわかりやすい対比が 出るよう、気をつけました。

ただ、梶原の主張のほうがどう考えても正論です。
義経の台詞には、思わず噴出してしまいました。

野山のすえにて死に、海河のそこに溺れて失するも、皆これ前世の宿業なり

( ゚д゚)ポカーン…そんな考えの下こき使われる兵卒はたまったもんじゃないです。

「梶原=義経を陥れた大悪人」というイメージは、江戸時代、歌舞伎や講談の中で形勢されたものです。
勧善懲悪を軸としたわかりやすいプロットと、義経を悲劇の主人公に仕立てるために、引き立て役にされちゃった 感じです。

近年では「頼朝の武家政権を助けるために敢えて憎まれ役を演じた有能な人物」という見方のほうが 有力です。

司馬遼太郎氏の「義経」は、むしろ梶原バンザイで、徹底して義経の無能っぷりが こき下ろされていました。


posted by 左大臣光永 | 屋島・壇ノ浦

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