平家物語巻第八より「名虎」です。平家物語本筋より330年ほど昔の出来事です。
文徳天皇が崩御した際、第一皇子と第二皇子のどちらが即位するか、
競馬・相撲で決めることになりました。
平家物語:名虎 朗読mp3 (二)
あらすじ
寿永二年(1183)八月十日、院の御殿で
木曽義仲、十郎蔵人行家を
はじめとして、今回の平家追放に効のあった源氏に対する
除目(じもく。
勲功のあった者に位や領土を授けること)が行われます。
同十六日、平家一門の官職が解かれます。ただし平大納言時忠他二名は
三種の神器を取り戻す交渉相手であるため官職を解かれませんでした。
同十七日、平家は筑前国大宰府に着きます。都から同行した
菊池次郎高直は自分の領土である肥後の国に引きこもってしまいます。
筑前岩戸の大蔵種直のほかは、この地域で平家の元に参ずる者はいませんでした。
平家は菅原道真をまつった大宰府安楽寺で奉納のための連歌の会を持ち、
そこで重衡は詠みます。
すみなれし ふるき宮この 恋しさは 神もむかしに おもひしるらん
(意味)住み慣れた都を遠く離れた我らの心細さを、道真公はきっとわかってくださるだろう。
御自身、都を追放されてここ大宰府に生涯を終えられたのだから
同二十日、都では四の宮が即位します。都と平家方、
日本に二人の天皇がいるというおかしな状況となりました。
昔、第五十五代文徳天皇が崩御された時、多くの宮(皇子)たちが
位を相続することに望みをかけていましたがその中でも一の宮
惟高親王(これたかしんおう)と二の宮惟仁親王(これひとしんおう)が器量・家柄などにおいてぬきんでていました。
惟高親王は柿下の木僧正信済(かきのもとの きそうじょう しんぜい)を、
惟仁親王は比叡山の恵良和尚(えりょうかしょう)をそれぞれ祈祷の師に立て、どちらも譲らぬ構えでした。
公卿たちはどちらに継がせるか話しあいましたが、私情をはさんだとの
そしりを避けるため相撲・競馬の勝敗で決めようという話になりました。
当日、信済も恵良も必死に祈祷を捧げていましたが、恵良方(二の宮惟仁親王方)は
「恵良は死んだ」と偽情報を流し信済を油断させ、その間に祈り続けました。
競馬では決着がつかず、相撲で勝負を決することになります。
惟高親王方より名虎の右兵衛督(なとらの うひょうえのかみ)が
惟仁親王方より能雄の少将(よしおのしょうしょう)が出ます。
名虎は六十人力の大男、対して能雄は小柄ですが夢のお告げによって
選ばれたものです。
大接戦となりますが、名虎の力任せの攻撃に、能雄は劣勢となります。
惟仁親王家より恵良和尚の元へお使いが繰り返し飛びます。
恵良和尚がヤケクソ気味で独鈷で自分の脳髄を砕き、乳木(薪)
にまぜて護摩を焚くと、能雄は相撲に勝ちました。
こうして二の宮惟仁親王が即位し清和天皇となりました。
一の宮惟高親王 | 二の宮惟仁親王 |
信済 | 恵良 |
名虎 | 能雄 |
しかし平大納言時忠は言います。もしそうしていたとしても 木曽義仲が高倉宮以仁王の遺児を出家させ主としている、これを還俗 させ位につかせることはありうる話だと(「通乗之沙汰」参照)。
同九月二日後白河法皇は伊勢へ新帝即位の勅使を遣わしました。
「一の宮 vs 二の宮」の単純な後継者争いの図なのですが、
どちらがどちらか陣営がごっちゃになりがちです。よく頭の中で
整理してから朗読しないといけません。