腰越

平家物語巻第十一「腰越(こしごえ)」です。平家を滅ぼし 宗盛父子を鎌倉へ連行した義経でしたが、頼朝は義経を鎌倉へ入れません。義経は誓って二心なき旨を書状(腰越状) にしたため大江広元に託します。

平家物語:腰越 朗読mp3

あらすじ

元暦二年(1185)五月七日、義経は壇ノ浦で生け捕りにした宗盛父子を連れて 京都を発って鎌倉へ向かいます。

逢坂の関の脇の清水を見て宗盛、

都をば きふをかぎりの せきみずに またあふさかの かげやうつさん
(意味)今日を限りに都を発って遠い東国に向かうのだ。この逢坂の関 の清水にもう一度自分の影を映す日は来るのだろうか。

義経は「我が勲功に代えても、必ず命ばかりはお助けします」と宗盛を 励ますのでした。

一方鎌倉では梶原景時が義経のことを「謀反の心あり」と 頼朝に吹き込んでいました。 一の谷の合戦の時の義経の思いあがった 言動を語り頼朝に注意を促しました。

頼朝は大名・小名に命じて軍兵を招集しました。

金洗沢(現鎌倉市七里が浜)で宗盛父子の身柄を引渡しますが、 義経自身は腰越(鎌倉の西端)に追い返されます。

木曽義仲と平家を滅ぼし、三種の神器を 奪還し、どんな恩賞に預かるだろうという所へ わずかに伊予守に任じられただけで、鎌倉殿に対面すら許されないと いうのです。義経は困惑します。

義経は誓って二心なき旨を書状にしたため、重臣の大江広元に託します。世に言う 「腰越状」です。



平家物語には「康頼祝詞」「勧進帳」「木曽山門牒状」など、ズラーーッと 書状を読み上げる章がいくつかありますが、この腰越状ほど悲壮なものは他 ないです。

義経の置かれた苦しい立場を想像しながら、切々と朗読したいところです。

腰越の満福寺には今でもこの「腰越状」が展示されて います。本当に義経自身が書いたかどうかはともかく、 義経の切々とした心情をよくあらわしていると思います。


posted by 左大臣光永 | 屋島・壇ノ浦