平家物語巻第七「還亡(げんぼう)」です。昔、玄房僧正は藤原広嗣(ふじわらひろつぎ)を調伏しますが、後にその怨霊に首をもぎ取られます。
あらすじ
北国では平家の名だたる武将らが命を落としました(「実盛」)。
わが子の死を知った上総督忠清、飛騨督景家は嘆きのあまり命を落とします。
六月一日、戦乱平定のため安徳天皇が伊勢大神宮へ行幸されることが言い渡されます。
天平の頃、玄房僧正という僧は朝廷に反旗を翻した藤原広嗣を調伏しますが後にその怨霊に首をもがれます。
この玄房僧正は吉備真備が唐へ渡ったとき付き添いをし、仏教の一派である
法相宗を伝えた人です。
「玄房」という名について唐人が不吉な占いをしました。「玄房は還って亡ぶという意味だ。
日本に帰ってから災難があるだろう」と。それが実現してしまったのです。
玄房が首をもがれて後の天平十九年、興福寺の庭に「玄房」と書かれた
頭蓋骨が落ち、大きな笑い声が響いたといいます。
こんなことがあったので藤原広嗣の怨霊をなだめるため神扱いにし松浦の
鏡の宮にまつったのです。
また嵯峨天皇の時代、先帝平城上皇が愛妾の薬子、その兄藤原仲成に
そそのかされて嵯峨天皇と対立したことがありました(薬子の変)。
その時は帝の第三皇女、有智内親王を斎院(京都守護の賀茂神社)に入れて戦乱が静まることを祈ったのでした。
こうした例に倣い、今回も様々の祈祷が持たれました。
賀茂神社の斎院の起こりが興味深いです。ようは天皇が自分の
娘を巫女さんとして捧げたわけです。
斎院は平安時代を通じ貴族たちの社交場、サロンとしても発展しました。
歌会が開かれたりして文化の発信基地になったようです。
百人一首の「玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする」で有名な式子内親王(しょくしないしんのう)も斎院に入っていた時期がありました。
「枕草子」に登場する選子内親王(せんしないしんのう)は12歳で賀茂斎院に選ばれて以来57年間も斎院に勤め「大斎院」と称されました。
「源氏物語」には六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)という嫉妬ぶかい女性が
登場します。光源氏の正妻葵の前を生霊となって取り殺します。
そのきっかけとなったのが斎院の禊行列で葵の上の牛車と鉢合わせしたことでした。