平家物語巻第八「山門御幸(さんもんごこう)」です。後白河法皇は
平家の手から逃れるため法住寺殿を抜け出します。
平家物語:山門御幸(二)朗読mp3
あらすじ
寿永二年七月二十四日、後白河法皇は平家一門都落ち(「一門都落」「福原落」)に際し
難を逃れるため鞍馬へ御幸されます。
その鞍馬も都に近く危険だというので横川(よかわ)を経て比叡山東塔の明雲座主の房へ御幸されました。
法皇が比叡山に御幸されたと聞き、太政大臣、左大臣、右大臣をはじめ
名だたる人々が比叡山に押し寄せました。
同二十八日、法皇は義仲に守護されて都に戻ります。都には方々から源氏が押し寄せます。
法皇は義仲、行家に「前内大臣宗盛以下、平家の一族を追討せよ」との院宣を下します。
平家に対しては「主上(天皇)と三種の神器を返還せよ」と院宣を下しますが平家は聞き入れませんでした。
高倉院には安徳天皇のほか、三人の皇子がありました。二宮は安徳天皇とともに平家に連れ去られましたが三の宮、四の宮は
都に留まっていました。
まず法皇のもとに三の宮が召されますが、法皇を見てむずがったので退出させられます。
次に四の宮を召すと法皇になつき喜んだので四の宮を即位させることとなりました。
母は七条修理大夫信隆卿の娘。建礼門院の元に宮仕えしていました。
さて四の宮を養育していた法勝寺の執行能円法印は平家の都落ちに同行し、都に北の方と四の宮を置きっぱなしでした。
後に都に使者を送り二人を呼び寄せようとしますが、北の方の兄(能円の義兄)
紀伊守教光(きのかみ のりみつ)がこれを止めます。
その次の日に法皇が都に戻られます。四の宮にとっては教光は大変な
奉公をしたわけです。
しかし即位後もたいした恩賞の無いまま長い年月が流れます。思い余った教光はニ首の歌を
詠みました。
一声は おもひ出てなけ ほととぎす おいその森の 夜半のむかしを
(意味)せめて一声鳴いてほしい。ほととぎすよ。老蘇の森の夜のあのさえずりを思い出して。
しかるべき処遇を与えてほしいの意を込めている。
籠のうちも なほうらやまし 山がらの 身のほどかくす 夕顔の宿
(意味)山がらは夕顔の咲くみすぼらしい里で飼われているが、たとえ窮屈でも立派な籠に
飼われているのは羨ましい。任官への希望を込めている。
主上(四の宮=後鳥羽天皇)はこれを見て哀れに思い、教光を正三位に任じました。
このへんは系図を把握しておくとわかりやすいです。
高倉院の皇子たちは、
一宮 安徳天皇…平家に連れ去られる。壇ノ浦に沈む
二宮 守貞親王…平家に連れ去られるが後に帰還(「一門大路渡」)
三宮 惟明親王
四宮 尊成親王(後の後鳥羽天皇)
ここで話題になっている四の宮尊成親王、後の後鳥羽天皇です。天皇親政をもくろみ鎌倉幕府に対し承久の乱を起します。歌人としても有名で
人もをし 人もうらめし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は
は百人一首に採られています。この歌はあんまりいいと思わないですが。