大臣流罪

『平家物語』巻第三より「大臣流罪(だいじんるざい)」です。

治承三年(1179)11月、平清盛は関白殿(藤原基房)はじめ太政大臣(藤原師長)以下四十三人の官職を停止して、追放しました(治承三年の政変)。

その中に、関白藤原基房は備前に流され、清盛の娘婿であった藤原基通(普賢寺殿)は異例の出世をとげ、太政大臣藤原師長(妙音院殿)は尾張に流されながらも配所にて風流三昧のくらしを楽しみます。

あらすじ

平清盛は、関白殿(藤原基房)はじめ太政大臣(藤原師長)以下の官職を停止して、追放した。

関白殿は大宰権帥として九州へ流す。道中、関白殿は鳥羽の古河で出家した。

人々は関白殿の曇りない鏡のような人柄を思い、惜しんだ。

流罪になった人が途中で出家した場合は予定されていた地へはやらぬことになっていたので、はじめ日向国と決まっていたが、備前に変更となった。

大臣が流罪になった例はこれまでに六人あるが、摂政関白が流罪になるのは、これがはじめてときく。

故中殿の中納言(藤原基実)の子である二条中将基通は、入道相国の娘婿だったので、大臣・関白とされた。

その昔、円融院の御代、一条摂政謙徳公(藤原伊尹)が亡くなった時、弟の堀河の関白忠義(藤原兼通)公は、そのころはまだ従ニ位の中納言だった。

その弟、法興院の大入道殿(藤原兼家)は、そのころは大納言の右大将だったので、忠義公は弟に超えられていたことになる。

しかし関白忠義(藤原兼通)公は、今また超えかえし、内覧の宣旨を受けたことを世の人々はおどろきあったのだが、この基通の昇進はそれをも超えている。

参議でない二位中将から、大中納言をへずに大臣関白になった事は、きいたことがない。普賢寺殿(ふげんじどの=藤原基通)のことである。

……

一方、太政大臣師長は官職を停止され、東国へ流される。

さる保元元年(1156年)に父宇治悪左府頼長の謀叛(保元の乱)に連座して、兄弟四人流罪となった。

ほかの三人は配所で死んだが、この師長は九年の後、召還されてもとの位に復し、前中納言から権大納言に昇進した。

この時、大納言の欠員がなかったので員外の大納言とされた。大納言が六人になるのははじめての例である。また前中納言から権大納言への昇進も例がすくない。

管弦の道に達し、学問芸能にすぐれていらしたので次々と昇進して太政大臣にまでお極めになったのに、どんな罪の報いで二度もお流されになるのだろう。

保元の昔は南海の土佐へ流され、治承の今は逢坂関を超えて尾張国へ。しかし「罪もないのに配所の月を見る」ことは風流人の願うことであるので、大臣(師長)は何とも思わなかった。

白楽天が瀋陽江に左遷されたことに自らをなぞらえ、鳴海潟の海をはるかに見て、名月を眺め、朗詠し、琵琶を弾き、和歌を詠んで、風流三昧に月日を送った。

ある時、熱田明神に参詣して、琵琶をひいて朗詠した。音楽の妙などわかるはずもない地元の老人、女、百姓までも、それを聴いて感じ入った。

しだいに深夜になると、琵琶の曲の中に花が芳香をふくみ、月が清らかな光を争うようである。

朗詠にあわせて琵琶を弾くと、神もその感動にたえず、神社の宝殿が振動する。

平家の悪行がなければ今このようなすばらしいしるしを見ることはできなかったと、大臣(師長)は、感激の涙を流した。

……

ほかにも按察大納言(あぜちのだいなごん)資賢(すけかた)以下、多くの公卿殿上人が官位を停止させられた。

大納言(資賢)が言うことに、

「三界は広いといっても、五尺の身もおき所はない。一生は長いといっても、たった一日でも暮らすのは難しい」

といって、夜中に都の内を抜け出して、大江山を超えて、丹波国村雲という所に、しばらく留まっていた。

そこから遂には尋ね出されて、信濃国へ流されたという。


posted by 左大臣光永 | 平家繁栄