『平家物語』巻第七より「一門都落(いちもんのみやこおち)」。
平家一門都落ちに際し、平頼盛はひそかに頼朝からの温情を期待して、都に引き返す。
あらすじ
池の大納言頼盛は御邸(池殿)に火をかけて出発したが、鳥羽から三百余騎率いて引き返した。
それを見て、平家の侍越中次郎兵衛盛嗣は、「侍どもに矢を射掛けましょう」と宗盛に提案する。しかし宗盛が却下したので実行しなかった。
新中納言知盛は、都を出てまだ一日も経っていないのに人々の心の変わっていくことを嘆いた。
そもそも頼盛がとどまることの決めたのは、頼朝からの温情を期待してのことだった。頼朝は前々から故池禅師のよしみで、頼盛をなおざりにしないと約束していたのである。
八条女院が仁和寺の常磐殿にいらしたので、頼盛はそこに身をかくした。頼盛は女院の乳母子の宰相殿という女房に連れ添っていたからである。
頼盛は女院に「万一のことがあれば私をお助けください」と申し上げるが、女院の返事はすげないものだった。
小松殿の公達は三位中将維盛をはじめ兄弟六人は千騎ばかりで淀の六田河原で行幸においついた。
そのほか、平家の名だたる公達、僧、侍らも都を落ちていく。
山崎の関戸院に帝の御輿を置いて、男山八幡宮を伏し拝み、平大納言時忠が「ふたたび都にお帰し入れください」と祈ったのは悲しいことだった。
住みなれた都を離れ、遠い旅路におもむく心細さを、時忠と経盛が歌によんだ。
肥後守貞能は、淀川の河口に源氏がいると聞いて蹴散らそうと五百余騎で出ていったが、誤報だった。その帰り、宇度野の辺で行幸に出会った。
貞能は宗盛から平家一門都落ちに至った経緯をきくと、手勢三十騎だけ連れて都に引き返す。
「都に残っている平家の残党を討つために貞能が都に入る」という噂が流れると、頼盛は「それは自分のことだろう」と恐れる。
貞能は西八条の焼け跡で一晩中野営したが、平家の公達は誰ももどってこないので、小松殿の墓をほらせ、御骨に向かい泣く泣く今の思いを訴えると、骨は高野山へ送り、あたりの土は賀茂川に流させ、平家一門とは反対に東国へ落ちていった。
以前、貞能は宇都宮(朝綱)を預かって情けをかけたことがあったので、そのよしみか、貞能が宇都宮をたよると宇都宮は親切にしたということだ。