朗読 平家物語平家繁栄 法住寺合戦

法住寺合戦

平家物語巻第八より「法住寺合戦(ほふぢゆうじかっせん)」。院方との合戦に勝利した義仲は、公卿殿上人四十九人の官職を停止した。

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あらすじ

院方の近江守仲兼(源蔵人)は法住寺殿の西門を固めて戦っていたが、木曾方山本冠者義高が、院(後白河院)も帝(後鳥羽帝)もよそに移ったことを言うと、ならばと敵の大軍の中に駆け入って戦い、主従八騎となった。

八騎の中に、加賀房という法師武者がいた。馬が乗りにくいことを言うと、源蔵人が自分の馬に乗り換えさせたので、加賀房は敵の中に駆け入り、八騎のうち五騎が討たれ、主従三騎となった。

源蔵人の家の子、信濃次郎仲頼は、源蔵人の馬が敵の中から走り出てきたのを見て、源蔵人が討たれたと思い、敵の中に駆け入って名乗りを上げ、さんざんに戦い討ち死にした。

源蔵人はこうしたことを夢にも知らず、兄の河内守と郎党の主従三騎で南へ向かって落ちていくと、摂政殿(藤原基通)が戦を避けて宇治へ向かうのに、木幡山で追いついた。

摂政殿ははじめ木曾方かと思ったが、院方だったので警護を任せた。それで源蔵人一行は摂政殿を宇治の富家殿までお送りした後、河内へ落ちていった。

翌二十日、義仲が六条河原で討ち取った首を記録させると、六百三十余人であった。その中に明雲大僧正、園城寺の長吏円恵法親王の首もあった。見る人皆涙を流した。義仲の軍勢は鬨の声を三度あげた。

故少納言入道信西の子息、宰相脩範は法皇への拝謁を求めたが警護の武士が許さないので、にわかに髪をおろして法師になり、「これで問題なかろう」といって通された。

脩範が法皇の御前に参って、今回討たれた主だった人々のことをお耳にお入れすると、法皇は御涙をおとどめになることもおできにならなかった。

義仲は家の子郎党を集めて評定し、「合戦に勝ったからには天皇になろうか、法皇になろうか、いや関白に」などと言うが、書紀の覚明は、「関白には藤原氏しかなれません。殿は源氏ですから叶いません」というので、義仲は院の御厩の別当となり丹後国を知行した。

また義仲は前関白松殿(藤原基房)の娘をめとって松殿の婿になった。

同十一月二十三日、義仲は三条中納言朝方卿はじめ公卿殿上人四十九人の官職を停止した。これは平家が停止した四十三人より多かった。
そのうちに、鎌倉の前兵衛佐頼朝は、義仲の狼藉をしずめるべく、弟の蒲の冠者範頼、九郎冠者義経をのぼらせるが、すでに法住寺殿を焼き払い、法皇をお捕らえ申して天下が暗闇になったときこえたので、うかつに上京して合戦することもできない。

ここから関東へ詳細を報告しようと、尾張国熱田大宮司のもとにいたが、そこに院の北面に仕えていた宮内判官公朝、藤内左衛門時成がきて、義仲の狼藉を伝える。

義経は、詳細を知らぬ使では不審が残るからと、公朝を直接、鎌倉へ下らせる。公朝は嫡子の宮内所公茂だけをつれて鎌倉へ下る。

頼朝は事の次第をきいて驚く。鼓判官が法皇によからぬ申し出をしたために、院の御所を焼かせ、高僧・貴僧を滅ぼすことになった非を難じ、都へ早馬をもって伝える。

鼓判官は弁解しようと鎌倉へ下るが頼朝に相手にされず、空しく都へ戻った。後には伏見稲荷のあたりの辺鄙なところに住んだという。

義仲は平家の方に使者を送って、「都へのぼり、共に東国を攻めよう」と持ちかける。大臣殿(宗盛)はよろこんだが、平大納言(時忠)、新中納言(知盛)は、義仲に誘われて都に還ることをよしとしなかった。交渉は決裂した。

松殿入道殿(藤原基房)が義仲を召して、「清盛公は専横なふるまいをしたが大善根をつんだので二十余年、天下を統治できた。悪行だけでは世をたもつことはできない」と前置きし、解官した人々の官職を戻すよう求めたので、義仲は人々の官職を戻した。

松殿の御子師家はまだ中納言中将だったが、義仲のはからいで大臣摂政に昇進させた。ちょうど大臣の空席がなかったので、徳大寺左大将実定が当時内大臣だったのをやめさせ、師家を内大臣にした。

同年十二月十日、法皇は五条内裏をお出になって、大膳大夫業忠の邸、六条西洞院にお移りになる。同年十三日、歳末の御修法があった。そのついでに叙位除目が行われ、義仲の思うままに人々の官位が決められた。

平家は西国に、頼朝は東国に、義仲は都に勢力を張っていた。前漢・後漢の間に王莽が十八年間天下を治めたごとくであった。

四方の関所をみな閉じたので、朝廷への貢物も献上されず、個人への年貢もとどかないので、京中の人々は、ただ少ない水の中の魚と同じである。

年が暮れて寿永も三年となった。

posted by 左大臣光永 | 平家繁栄