首渡

『平家物語』巻第十より「首渡(くびわたし)」。寿永三年(1184)二月十ニ日、一の谷で討たれた平氏の首どもが都入りし、範頼・義経の意見により大路を渡される。維盛卿の妻子は、維盛の身の上を案じ、動揺する。維盛も妻子が心配していることを思い、使者に手紙を持たせて都へ送る。

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あらすじ

寿永三年(1184)三月十二日、一の谷で討たれた平氏の首どもが都に入った。平家に縁のある人々はどんなひどい目にあうかと嘆き悲しみあった。

中にも大覚寺に隠れていた小松三位中将維盛の北の方はことさら不安にお思いになった。

「三位中将という公卿が生け捕りになって上京するそうだ」ときいて、夫維盛に違いないと思ったが、これは本三位中将重衡卿のことであった。

ならば多くの首の中に維盛卿はおられるに違いないと、北の方はやはり気が気でない。

同十三日、大夫判官仲頼が六条河原で首を受け取る。蒲冠者範頼、九郎判官義経が、首どもを大路に渡して獄門にかけることを奏問する。

公卿詮議あって、これに反対意見が出たが、範頼・義経の意見に圧され、結局は首を渡すこととなった。

維盛の若君、六代御前におつきの斎藤五・斎藤六は現場に首どもを確認しに行った。見知った首が多い中、維盛の首はなかった。二人は大覚寺に帰って北の方に事の次第を報告する。北の方は「他人の身の上とも思えない」と、涙にむせぶ。

斎藤五は、事情に詳しい者から聞いた話として「小松殿(重盛)の君達の中に、末子の備中守殿だけが一の谷で討たれた。維盛はいくさの前から大病をわずらって八島へむかったらしい」と話す。北の方は「病をわずらったのは我らを心配しすぎたせいだろう」と、さらに話をききたがる。

維盛卿は、妻子が心配しているだろうと、侍一人に手紙をたくして都へ上らせた。

北の方はその手紙を読んで、あらためて嘆き悲しまれた。使者は四五日とどまったのち、北の方と二人の子の手紙をもって、八島に帰り、維盛の前に参った。

維盛は手紙を読んで、いよいよ抑えきれない気持ちである。これより山伝いに都へ上って、もう一度妻子に会ってから死ぬにはしかじと、泣く泣く使者に語る。



posted by 左大臣光永 | 平家繁栄