平家物語巻第十一より「勝浦 付大坂越(かつうら つけたりおおざかごえ)」。義経軍は四国阿波から山越えをして讃岐国に出て、八島に攻め寄せる。
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あらすじ
夜があけると、義経軍は人馬を上陸させ、渚近い平家の陣に攻め寄せる。平家の守備隊百騎ばかりは、すぐに撤退した。
義経は伊勢三郎義盛をよんで、敵陣の中から一人適当な者をつれてこさせる。義盛は敵陣の中に駆け入り、齢四十ばかりの男をつれてくる。
男は坂西の近藤六郎近家と名乗る。義経はこの近藤六に見張りをつけ、八島への道案内をさせることにする。当地の地名を尋ねると、「勝浦」というので、義経は、縁起がよいとよろこんだ。
この地に源氏に敵対する者として阿波民部重能の弟、桜間介能遠(さくらまのすけよしとお)がいるというので、義経は近藤六の軍勢と自軍をあわせて桜間介の城に押し寄せて攻めた。桜間介は敗走し、城は落ちた。
義経が近藤六に八島の状況をたずねると、今は各地に守備隊をさいており、また、阿波民部重能の子、田内左衛門教能が、河野四郎を攻めているところなので、八島の陣は手薄であるという。義経は八島を攻める好機と考え、阿波と讃岐の堺にある大坂越えという山を、夜通し越えていった。
夜中頃、義経は立文を持った男をとらえて、手紙を奪い取った。手紙は女房が宗盛に当てた手紙らしく、「九郎はするどい男だそうですから用心してください」と書かれていた。
翌十八日午前四時頃、大坂山から讃岐区引田(ひけた)という所に下りて人馬を休め、丹生屋(にうのや)・白鳥(しらとり)を通り過ぎ、八島に攻め寄せた。
義経はまた近藤六に八島の館のようすをたずねると、「海の浅い所です」というので、ならばすぐに攻めろといって、高松の民家に火をかけながら、八島の城に攻め寄せた。
八島では、阿波民部重能の嫡子、田内左衛門教能は、河野四郎が召しても参らないので、これを攻めようということで、三千余騎で伊予国に超えていたが、河野は打ち漏らし、家の子郎党百五十余人を討って、その首を斬って、八島の内裏に差し上げた。
内裏で首実検はまずいということで大臣殿の宿所で首実検していたところ、兵士どもが「高松の方で火が起こった」とさわいでいる。
「敵が押し寄せて火をつけたのでしょう。大軍とおもわれます。はやく船にお乗りください」といって、大門の前の渚に船をつけて、つぎつぎとお乗りになる。
天皇の御座船には女院、北の政所、ニ位殿以下の女房方が乗られた。大臣殿父子は同じ船に乗られた。それほかの人々は思い思いの船に乗って、漕ぎだしたところに、源氏の武士どもが大門の前の渚に攻めてきた。
馬が蹴上げる水しぶきが霞とともに立ち込める中から、源氏の白旗を差し上げたので大軍と見たのは、平家の運の尽きであった。
義経は平家に小勢と見せまいと、数騎ずつ群をなしながら出てきた。