平家物語巻第三より「足摺(あしずり)」です。
歌舞伎や能で有名な俊寛の話です。
島流しになった三人のうち、俊寛だけが赦免に漏れ、一人残されます。
あらすじ
鬼界ケ島には、俊寛僧都(しゅんかんそうず)、丹波少将成経(たんばのしょうしょうなりつね)、康頼入道(やすよりにゅうどう)の
三人が流されていました。
彼らは先年平家に対して企てられたクーデター計画、鹿谷事件(「鹿谷」)の首謀者として、流罪になっていたのです。
他の二人が祠をつくっておまいりしていた(「康頼祝詞」)のに比べ、俊寛は不信心で、傲慢な性格でした。
そこへ、中宮徳子の安産祈願に伴う恩赦の使者が到着します。
俊寛は、大喜びしますが、赦免状に俊寛の名はありませんでした。
自分ひとりが赦免に漏れたことを知った俊寛は、丹波少将につかみかかり、
「俊寛がこうなったのも、そなたの父、大納言入道殿が企てた謀反のせいだ」とわめきます。
丹波少将は、都についたら俊寛を赦してもらうよう工作すると約束しますが、俊寛はグッタリと落ち込んだままでした。
俊寛が「乗せてゆけ」と叫ぶ中、船は出て行くのでした。
残された俊寛は、少将が赦免の工作をしてくれることに微かな期待をかけつつも、
一人うなだれます。
俊寛について
俊寛一人が赦されなかった理由は、平家物語中では俊寛の傲慢で不信心な性格のせいとされています。
が、これは「因果応報」の主題を浮き立たせるため、単純化された図式であることは言うまでもありません。
実際には使者が到着した時に、すでに俊寛は死んでいたとか、諸説あるようです。
たとえば「愚管抄」には「俊寛と検非違使康頼とをば硫黄島と云所へやりてかしこにて又俊寛は死ににけり」とあります。赦免の使者が届く前に死んだというのです。
しかし、そんな史実の種火をここまでドラマチックな物語に仕立ててしまう作者の手腕は驚くべきものです。
起承転結のハッキリしたドラマチックな組み立ててで、この章だけで独立した物語として楽しめます。
「奥より端へ読み、端より奥へ読みけれども、二人とばかり書かれて三人とは書かれず」
この描写など、見事です。俊寛の表情が喜びがら疑念、絶望に変わっていく様子が、生々しく伝わってきます。
俊寛は平家物語の中で繰り返し「傲慢で信仰心の無い人物」と語られています。
しかし「春は燕(つばくらめ)、秋は田の面(も)の雁のおとづるるように、
おのづから故郷のことをも伝えききつれ…」こういう台詞を見ると、情緒ある風流人としての側面も見えます。
私は俊寛のそういう人間くさい所が大好きです。
平家物語の中で清盛や重盛は確かに印象的ですが、人間のある側面を肥大化させた、記号的人物という感じも否めません。
それに対し俊寛は欠点を持ち多面性のある生々しい人物造形をされていると思います。
一方、近松門左衛門の「平家女護島(へいけにょごがしま)」は、平家物語『足摺』や謡曲『俊寛』に
に基づきながら大胆なアレンジが加えられています。
都からの使者が瀬尾太郎兼康であったり、成経と結婚する島の娘、千鳥が登場したり、俊寛が
自らの意思で島に残ったり、俊寛の妻東屋が清盛に殺される描写など…そうとう広がってます。
俊寛の人物像も、平家物語の俊寛とはだいぶ違い高潔な感じです。
現在では二段目「鳥羽の作り道、鬼界が島」だけが「俊寛」の通称で演じられています。
筋が複雑なためか通しで上演されることはないようです。
傲慢だった俊寛に、最期はほんの少し人を信じる気持ちが生じかけます。
絶望の中のかすかな救い。なかなかイキな終わり方だと思います。
この後「有王」の章で、俊寛の心の救済が描かれます。
俊寛の登場する作品
「俊寛」(能)
「硫黄之島」(幸若舞)
「平家女護島」近松門左衛門作(人形浄瑠璃)
「俊寛僧都嶋物語」滝沢馬琴作(小説)
「俊寛」小山内薫作(明治44)(戯曲)
「俊寛」倉田百三作(大正9)(戯曲)
「俊寛」菊池寛作(大正10)(小説)
「俊寛」芥川龍之介作(大正11)(小説)
「有王と俊寛僧都」柳田国男作(昭和15)(評論)
「俊寛 平家物語絵巻(三)」木下順二:文 瀬川康男:絵(1994)(絵本)
「俊寛 (日本の物語絵本)」松谷みよ子作(2006)(絵本)
朗読について
朗読しがいのある章です。低い音、高い音、ゆっくり読むとこ、早く読むとこ…はっきりしたメリハリがあります。
朗読の設計図を組み立てやすいです。
ただ、音の高低差(ダイナミックレンジ)が激しい章ですから、コンプレッサーを購入する前は
まともに録音ができませんでした。俊寛の台詞では、必ず音が割れました。