平家物語巻第七より「忠教都落(ただのりの みやこおち)」です。(「忠度」とも)薩摩守忠教(さつまのかみ ただのり)は都落ちに際し、歌道の師俊成に今まで書き集めた歌を託します。
あらすじ
木曽義仲の軍勢が都へ迫り、平家一門は西国へ落ち延びていきます。
その中に薩摩守忠教(忠度)の姿がありました。
忠教は、力のある武人でありながら歌道にも通じていた方です。もののふなれど風流を解する、といったところでしょう。
忠教は都落ちの途中で引き返し、歌道の師、俊成卿の邸を訪ねます。
(「百人一首」の編集者として知られる藤原定家の父です)
俊成に対面した忠教は、近年は忙しさにかまけ訪れることも稀になっていたことを侘びます。
そして勅撰集(天皇が主体となって編纂する歌集)が編纂されることがあれば、一首なりとも入れてほしいと、日ごろから書き溜めていた歌を出し、俊成に託します。
俊成は心打たれ、きっと忠教の願いをかなえるよう約束します。
忠教は
「前途程遠し、思を雁山の夕の雲に馳」
と口ずさみながら、心置きなく都を落ちていきました。
(和漢朗詠集。前途の困難さを歌った内容。「雁山」は中国山西省の山)
その後、世間が平和になり勅撰集「千載和歌集」が編纂されます。
忠教の歌には優れたものが多かったのですが、朝敵である平家の一員ということで
名前を出すことを許されず「詠み人知らず」として一首のみ採用されました。
さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの 山桜かな
(意味)さざなみの寄せる志賀の都は荒れ果ててしまったのに
長等山の桜だけが昔と同じように咲いていることよ。
「さざなみ」は「志賀」の枕詞。「ながら」は地名の「長等」に「昔ながら」を
懸けたもの。
解説
「維盛都落」、「忠教都落(忠度都落)」、「経正都落」と続く「都落ち」シリーズです。どれも
格調高い名文です。
中でもこの「忠教都落」は忠教の潔く思い切った様が描かれていて、
重い中にもすがすがしさがあります。
平家物語の中でも語るのが難しさで一二を争うと思います。忠教の長台詞、音の高低差の激しさ、短い中に課題がギュと詰まってます。
何度もやり直しているうちに完全に暗記してしまいました。だいぶ忠教の長台詞はスムーズに読めるようになってきたと思います。
悲しい声で読みそうになる内容ですが忠教の性格を考えてあまり暗くならないようにしないといけません。
平家物語では主要人物が思いを訴えるとき、「泣く泣く申されけるは」とか
書くのが普通ですが、忠教はこの章で一度も泣きません。
むしろ、「薩摩守悦んで」と書かれています。
「忠教最期」での死に様も、実に潔いものです。
そこが、逆にあはれです。
勅撰集に自分の歌が載るということは、和歌というものが生命につながる命の言葉と
考えられていた背景などからして、単に名が売れるとか名誉ということではなく、
「歌を通して自分の命を永遠ならしめたい」という情念みたいなものがあったのだと思います。
唱歌「青葉の笛」には、この「忠教都落」に基づく歌詞があります。
更くる夜半(よわ)に門(かど)を敲(たた)き、
わが師に託せし言の葉あはれ
今わの際まで持ちし箙(えびら)に
残れるはこれは「花や今宵」の歌