蘇武

平家物語巻第二より「蘇武(そぶ)」。 漢の武帝の時代(紀元前一世紀)、故国(匈奴)に捕われた将軍蘇武は祖国への想いを忘れず、十九年を隔てて帰国した。

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平家物語:蘇武 朗読mp3

あらすじ

鬼界が島に島流しになっていた康頼入道が島から流した卒塔婆は、安芸の厳島に流れ着きます(「卒塔婆流」)。そこに書かれていた望郷の歌は 都の人々の哀れを誘いました。

この出来事は、漢の武帝の時代に故国に捕われた将軍蘇武の故事を思い起こさせることでした。

漢の武帝は、大将軍李少卿(李陵)、蘇武に命じて故国(匈奴)を攻めさせました。しかし両人とも故国に破れ、生捕りになります。

故王は生捕りになった者の中から六百三十余人を選び、岩窟に三年間監禁し、片足を切って追放します。その中に蘇武もいました。蘇武は雁の羽に都への手紙を結びつけて放ちます。

漢の昭帝(武帝の子)が御遊の折、飛んできた雁が翼に結びつけた手紙を食いちぎって、落とします。蘇武の手紙です。

そこには「身は故国に散らすとも、魂は再び漢に帰って帝にお仕えしよう」と、書かれていました。昭帝は感じ入ります。これ以後、手紙のことを「雁書」とも「雁札」とも言うようになりました。

蘇武が生きていることを知った帝は、将軍李広に命じて故国を攻め破ります。こうして蘇武は、十九年ぶりに故郷に帰還することができました。

一方、李少卿も故国に捕われ帰還を夢みていました。しかし帝は李少卿の裏切りを確信し、墓を掘り起こして李の両親の屍骸を鞭打ち、生きている親族にも罪を負わせました。

これを知った李少卿は身に不忠なきことを書にしたためて、漢へ送ります。帝は李の本心を知り、自分のした行為を嘆きました。

蘇武と康頼。時代も場所も違いますが、その望郷の想いには通ずるものがあります。

蘇武について

蘇武のことは、『十八史略』『漢書』に詳しく書かれています。(陳舜臣『小説十八史略』が手軽に手に入って読み易いです)

平家物語では、匈奴を攻略した将軍というふうに書かれていますが、『十八史略』では、使節として訪問した所を拘束されたとされています。

単于(ぜんう。匈奴の王)は、蘇武の人柄にほれ込み、故国に仕えるよう説得しますが、蘇武は漢への忠節を曲げません。

そこで単于は蘇武を幽閉し、食物を与えず、その信念をくじこうとしますが蘇武は従いません。

次に北海のほとりの不毛の地へ追いやり、雄の羊を与え、「その羊が乳を出したら漢へ返してやろう」と無茶を言います。

蘇武は羊を飼いながらも漢への忠節を忘れず、漢の旗印を肌身離さず持ち、十九年をすごしました。(ここから「蘇武牧羊」という成語が生まれます)

十九年後に漢と故国が友好を結んだために、蘇武は帰還することができました。

こうしてみると、平家物語の「蘇武」はかなり大胆にアレンジされてるのがわかります。

「生捕りになった蘇武が足を切り落とされた」というのは、『十八史略』にはまったく記述がありません。


「雁の翼に手紙が結びつけられていた」という話も、漢の使者が、蘇武の身柄を引き渡させる説得のために語ったホラ話らしいです。

蘇武救出のために「李広」が派遣されたとありますが、「李広」は李陵(李小卿)の祖父で、世代が全く違います。蘇武とともに故国を攻めた「李広利」との取り違えでしょう。

蘇武のことは「瀬尾最期」の中でも引用されています。木曽義仲に捕われながら平家に心を通わせる瀬尾太郎兼康を蘇武になぞらえ、


蘇子卿(そしけい)が胡国(ここく)に捕われ、李少卿(りしょうけい)が漢朝へ帰らざりしがごとし

蘇武、李陵、そして司馬遷にまつわる出来事は中島敦「李陵」に活き活きと描かれています。李陵が故国に内通していると語る武帝以下諸卿の前で司馬遷が堂々と李陵を弁護する場面は大好きです。


posted by 左大臣光永 | 平家繁栄
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