平家物語巻第二より「座主流(ざすながし)」です。
天台座主明雲(てんだいざす めいうん)は西光法師父子の讒言により、流罪に処せられます。
あらすじ
加賀国の国司師高と目代師経と、地元の寺とのいざこざ(「俊寛沙汰 宇川軍」)は、比叡山の大衆(だいしゅ)が日吉の神輿を振りたてて洛中へ乱入する大事件に発展した(「御輿振」)。
治承元年(1177)五月五日、天台座主明雲はこの責任を問われ、宮中での役務を停止され、法会に参加する権利を剥奪される。
これは「明雲の所領を国司師高が没収し、その意趣返しに明雲が比叡山の大衆を煽動したのだ」と、西光法師父子が讒言したためだった。
後白河法皇はお怒りになった。
十一日、明雲に替わり覚快法親王が新座主になる。
十二日、明雲は水と火の使用を禁じられる、「水火の責め」を受ける。
都の人たちは、こんなことをすれば再度比叡山の大衆が乱入するのではないかと恐れる。
十八日、公卿詮議があって、明雲大僧正のような高僧を還俗、遠流されるのは忍びないという意見が出たが、後白河法皇は明雲に対する怒りが解けない。
平清盛も法皇を説得しようと参上したが、法皇は風邪の気があるということで清盛をお召にならなかった。
やがて明雲の僧の資格を剥奪し、「大納言大輔(だいなごんのたいふ)藤井の松枝(ふじいのまつえだ)」という俗名をつける。
この明雲大僧正は天下第一の高僧の聞こえ高く、天王寺、六勝寺の別当も兼任していた。
しかし陰陽頭安倍泰親は、「明雲という字は上に日月の光を輝かせているが(「明」の字を「日」と「月」に分ける)下に雲を置いて、その輝きを見えなくしている」と、その前途を危ぶんだ。
仁安元年、明雲が座主に就任した時、代々の座主のように根本中堂の宝蔵を開き、開祖伝教大師(最澄)の文をご覧になった。
そこには未来の座主の苗字が書かれている。
自分の所まで見て、次を見ずにしまうのが慣習だった。
明雲もそうしたことだろう。
(2020年現在のお座主さまは、257代森川宏映(もりかわ こうえい)大僧正)
二十一日、配所が伊豆の国と決まり、一切経谷の別院に移される。
比叡山の大衆はこぞって、明雲を陥れた西光父子を呪詛した。
二十三日、配所へ出発。
澄憲法院は泣く泣く明雲を粟津まで送る。
明雲は澄憲に一心三観の観想法を授けた。
山門の大衆は、明雲大僧正に対する処分に憤り、大挙して東坂本へ押し寄せる。