卒塔婆流

平家物語巻第二より「卒塔婆流(そとばながし)」。
鬼界が島に流された康頼入道は都へ帰ることを願い、千本の卒塔婆に歌を書いて海に流す。そのうちの一本が厳島神社に流れ着く。

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あらすじ

鬼界が島に流された三人のうち、丹波少将成経と康頼入道は、島の中に 熊野三所権現に見立てた場所をしつらえ(「康頼祝詞」)、都へ帰れるよう祈っていた。

ある時、夜通し祈って今様を歌う。その明け方、康頼入道は夢を見た。

沖から白い帆をかけた舟が近づいてきて、赤い袴を着た女房が二三十人上がり、

よろづの仏の願よりも 千手の誓ぞたのもしき
枯れたる草木も忽ちに 花さき実なるとこそきけ
(どんなに多くの仏の誓願より、千手観音の誓願こそ頼りになる。
枯れた草木もたちまちに花を咲かせ、実を実らせるという)

と三べん見事に歌いきって、消えた。

目が覚めて康頼入道は「竜神が姿を変えて現れたのだ」と喜ぶ。

また、こんな夢もあった。

沖から吹く風が二人の袂に木の葉を吹き付けたので、見ると 熊野の神木、南木(なぎ)の葉である。

その南木の葉には虫食いの跡が文字の形になっていて、一首の歌が読み取れた。

千はやふる神にいのりのしげければなどか都へ帰らざるべき
(お前たちの神への祈りは、大変熱心だ。どうして都へ帰れないことがあるだろう。「千はやふる」は「神」の枕詞)

康頼入道は故郷の恋しさに、千の卒塔婆を作り、二首の歌をしるした。

薩摩潟おきのこじまに我ありと おやにはつげよ八重の潮風
(薩摩潟の沖にあるこの小島に私はいると、親に伝えておくれはるかな海をわたる潮風よ )

思ひやれしばしと思ふ旅だにも なほ古郷はこひしきものを
(思いやっておくれ ほんのしばらくの旅でも故郷は恋しいものだ。まして こんな いつ帰れるかわからない状況で、どんなに心細いか)

康頼入道は神仏に祈りながら卒塔婆を海へ流した。

その祈りが通じたのだろうか千本のうち一本が安芸の国厳島神社の御前の 砂浜に 打ち上げられた。

康頼入道の知り合いの僧が、西国修行の手始めに厳島へ立ち寄った時のこと。

宮人(神社に使える人)と思しき狩衣装束した男に出会い、厳島神社の由来 などを きいていた。

すると沖から一本の卒塔婆が流れてきて、そこに「おきのこじまに我あり」と康頼入道の歌が刻まれていた。

僧はこれを都に持ち帰り、康頼入道の妻子や、老母の尼公に見せた。

後白河法皇や清盛もこの話を知り、哀れに思った。


■ 補足 ■
柿本人麻呂は、島がくれゆく船を思ひ(1)、山辺の赤人は、あしべの たづをながめ給ふ(2)。
住吉の明神は、かたそぎの思をなし(3)、三輪の明神は、杉たてる門をさ す(4)。
昔素盞烏尊(すさのおのみこと)、三十一字のやまとうたをはじめおき給ひ しよりこのかた(5)、 もろもろの神明仏陀も、かの詠吟をもって百千万端の思ひをのべ給ふ。


下の、各歌を踏まえています。
(1)ほのぼのと 明石の浦の朝霧に 島がくれゆく 舟をしぞ思ふ (柿本人麻呂 小野篁とも)
(意味)ほのぼのと夜が明けていくその朝霧の中を、島陰に隠れつつある舟の寂しさ。しみじみ思います

(2)若の浦に 潮みち来れば 潟を無(な)み 葦ぺをさして 鶴(た づ)鳴きわたる(山辺赤人)
(意味)和歌の浦に潮が満ちると干潟が無くなり、岸辺に茂った葦をさして 、鶴が鳴きながら飛んでいく

(3)夜や寒き 衣や薄きたかそぎの 行き合いの間より 霜や置くら む(住吉明神)
(意味)夜は寒く、衣は薄い。神社の片削ぎが交差する間から霜がついてい るからだろうか

(4)我が庵は 三輪の山もと恋しくは 訪らひ来ませ 杉立てる門 (三輪明神)
(意味)私の庵は、三輪山のふもとにあります。恋しいならその杉の立った 門に訪ねてきてください

(5)八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣造る その八重垣を (素盞烏尊)
(意味)出雲の国に、その名の通り八重の雲が 豊かに立ち上り、新妻を籠らせるための八重の垣になってくれる。あの素晴 らしい八重垣よ
素盞烏尊が櫛名田姫(くしなだひめ)を妻とした時、その新居の前で詠んだ歌 とされます

卒塔婆が八重の潮路をわけてはるばる流れついた漂着物に望郷の念を抱くという着想は、島崎藤村「椰子の実」を思わずにいられません。


posted by 左大臣光永 | 平家繁栄
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