月見

平家物語巻第五より「月見(つきみ)」です。
清盛が福原へ都を移し、最初の秋が来ます。徳大寺左大将実定(とくだいじのさだいしょう じってい)は月の光に誘われ、荒れ果てた旧都を訪ねます。

平家物語:月見 朗読mp3

あらすじ

清盛が福原に強引に遷都してから(「都遷」)、最初の秋が来ます。
新都に移った人々は、光源氏ゆかりの須磨など、月見の名所を訪ねますが、 旧都で見る月を恋しく思う人も多かったのです。

その中に、徳大寺左大将実定卿(とくだいじの さだいしょう じっていのきょう)もいました。
実定は旧暦八月十日に福原から京都を訪ねていきます。
すでに人が引き払ってしまった京都の町は閑散として、荒れ果てています。

実定は妹、近衛河原の大宮(こんえがわらの おおみや)を訪ねます。
この近衛河原の大宮は、近衛天皇と二条天皇二人の天皇に嫁いだ多子(たし)のことです(「二代后」)。
多子は、二条天皇崩御(「額討論」)の後は、近衛河原でひっそりと暮らしていました。

実定はまず随身(ずいじん。警護の役人)に門を叩かせると、「東の小門よりお入りください」との 声。
実定が東の小門から入ると、大宮(多子)は琵琶を奏でているところでした。
実定の姿をみとめ、多子は喜びます。

源氏物語宇治の巻の中で優婆塞の宮(光源氏の弟)の娘が過ぎ行く秋を惜しみ 明け方まで琵琶を奏でていたが、素晴らしい夜が終わってしまうのを名残惜しく思い、撥をかざして有明の月を招いたという、その場面を思い起こさせる風流な状況でした。

さて大宮に仕えている女房に、待宵の小侍従(まつよいの こじじゅう)という者がいました。
この女房が待宵の小侍従と呼ばれるようになったいきさつは、ある時、御所で「恋人の訪れを待っている夕べと、逢瀬を終えた恋人が帰っていく朝と、 どちらが趣深いでしょうか」というお題に、女房は答えました
待つ宵の ふけゆく鐘の声きけば かへるあしたの 鳥はものかは
(恋人を待って次第に夜が更けていく中に鐘の音がしみじみと響く切なさに比べると、 朝聞く鳥の声などたいした悲しさではないと思えます)

これによって、「待宵の小侍従」と呼ばれることになったのです。

実定は、この待宵の小侍従を呼び出し、さまざまに物語します。
夜が更けて興が乗ってきた実定は、今様を口ずさみます。

ふるき都を来てみれば 浅茅が原とぞ荒れにける
月の光は隈なくて 秋風のみぞ身には染む

そうこうする内に夜が明けます。
実定は福原への帰路につきますが、待宵の小侍従が名残惜しそうにしていたのが どうしても気になり、随身をもう一度近衛河原に向かわせます。

随身は、実定の作ということにして待宵の小侍従に歌をささげます。

物かはと 君がいひけん鳥のねの 今朝しもなどか かなしかるらん (「たいした悲しさではない」と貴女が詠んだ鳥の声ですが、今朝はどうしてこんなに悲しく 聞こえるのでしょうか)

待宵の小侍従
またばこそ ふけゆく鐘も 物ならめ あかぬわかれの 鳥の音ぞうき
(恋人を待つ立場だからこそ、夜が更けていく中で聞く鐘の音も辛いのですが、 今度はいつ会えるかもしれない辛い別れの朝。
その朝の鳥の声の、なんと悲しいことでしょう。
夜に聞く鐘の音よりはるかに悲しいのです。
鳥の音が大したことはないなどと詠んだ私は、世間知らずでした)

随身が実定のもとに帰ってこのことを報告すると、実定は 「だからこそお前を遣わしたのだ」と、大変感心しました。

以後、この随身は「物かはの蔵人」と呼ばれるようになりました。


源氏物語の影響を強く受けた、王朝絵物語的な光景が繰り広げられます。
平家物語は戦争しているばかりでなく、こういうしみじみ話もあるのです。

待宵の小侍従の歌は、解釈が難しいです。
こういうテクニカルな中にも情緒を溢れた歌をトッサに詠んでいたなんて、 どんだけ頭がキレるんだよと思います。

夜更けに鐘の音がゴーーンと鳴るのは、確かに切ない情緒です。
実体験は除夜の鐘くらいしかないですが、漢詩の「楓橋夜泊」を思い出しました。
夜中に舟に乗っていると、鐘の音がしみじみ響いてくるという歌です。

ちなみに、待宵の小侍従はこの話の時点で50歳くらいと言われています。
実定と艶っぽい関係では全然ないのです。
風流の友、といったところでしょう。

秋ということで再録しました。なぜかサ行の音が耳にうるさくて困りました。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落
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