松尾芭蕉は奥の細道の旅で、義経の忠臣佐藤忠信、継信兄弟ゆかりの地を訪ねています。
嗣信最期 / 奥の細道 朗読
原文
月の輪のわたしを越て、瀬の上と云宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山際一里半計(ばかり)に有。飯塚の宿鯖野と聞て尋ね尋ね行くに、丸山と云に尋ねあたる。是庄司が旧館也。麓に大手の跡など、人の教ゆるにまかせて泪を落し、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし、先哀也。女なれどもかいがいしき名の世に聞こえつる物かなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞えば、爰(ここ)に義経の太刀、弁慶が笈(おい)をとゞめて什物(じゅうもつ)とす。
笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)
五月朔日(ついたち)の事也。
解説
佐藤忠信継信兄弟は平泉の藤原秀衡の配下の豪族佐藤基治の子息です。
藤原秀衡の命令で義経軍に加わり、最後まで忠義を貫きます。
平家物語「継信最期」で、能登守教経の矢から義経をかばって戦死する様が描かれています。
芭蕉はこの忠臣佐藤兄弟の史跡を訪ねています。現在の福島市飯坂町です。芭蕉の脳裏には、兄弟の最期の場面がシミジミと浮かんでいたことでしょう。
芭蕉がそのしるし(石碑)を見て涙したという佐藤兄弟の妻は楓と初音という名前です。源平合戦で佐藤兄弟が亡くなった時、その母親の前で亡夫の甲冑姿を着て、慰めたという話です。
「堕涙の碑」とは中国にあるその碑を見たものは必ず涙を流すという石碑で、「中国にあるという有名な堕涙の碑だが、案外近くに(わが国に)あったのだなぁ」ということです。
これを「この近くに堕涙の碑があった」と間違って解釈するとせっかくの詩情がぶち壊しになっちゃいます。