平家物語巻第四より「(きおう)」です。
源三位入道頼政(げんさんみにゅうどう よりまさ)が高倉宮をたきつけて謀反を起こさせるに 至った経緯、そして頼政の侍、競の活躍が描かれます。

平家物語:競(一) 朗読mp3
平家物語:競(二) 朗読mp3

あらすじ

高倉宮(以仁王)は、謀反が発覚すると女装して逃げ出します(「信連」)。
昔、天武天皇が賊に襲われた時、女装して吉野山へ逃げ込んだことを 思い起こさせることでした。
明け方、高倉宮は三井寺に着き、保護を求めます。

翌日、高倉宮の謀反が知れ渡ります。
後白河法皇は、「三日のうちに吉事と凶事がありましょう」という陰陽守安倍泰親の言葉(「鼬之沙汰」)を思い出しました。
喜びは幽閉を解かれて鳥羽殿を出ること、嘆きは高倉宮の謀反のことだったのです。

源三位入道頼政が高倉宮をたきつけて謀反を起こさせるに至った次第は、こうでした。

源三位入道の嫡子、伊豆守仲綱のもとに、「木の下」という名馬がありました。

平家の次男宗盛は木の下を欲し、権力づくで奪ってしまいます。
仲綱は馬との別れを惜しみ、歌を詠みます。

こひしくは きても見よかし 身にそへる かげをばいかが はなちやるべき
(意味)それほどこの木の下が恋しいなら、こちらへ来て見ればよいのだ。影のように 身から切り離すことの出来ないこの鹿毛を、どうして手放すことができようか

馬を手に入れた宗盛は仲綱が出し渋ったことを憎み、 馬に「仲綱」という焼印をし、それを客に見せ、仲綱の名を辱めます。

これを伝えきいた頼政父子は平家への復讐に燃え、以仁王をたきつけ、謀反へと導いたということです。

宗盛の愚かな行いを聞くにつけても、世の人々は亡くなった重盛の人柄を偲でのでした。

ある時、宮中に蛇が出ました。
重盛は騒ぎにならないようにそっとつかんで、仲綱に渡し、 仲綱はわが郎党、競(きおう)に渡し、騒ぎにはなりませんでした。

後日重盛は仲綱のふるまいを誉め、「女の元へ通う時にでも使ってください」と、 馬を与えます。
仲綱も「舞楽の還城楽のようでした」と重盛のふるまいをたたえました。

十六日、頼政は館に火をかけ、三井寺に向かいます。

頼政の侍、競は、はせ参じるのが遅れて、自宅に留まっていました。

宗盛が、「平家につくか頼政につくか」と問うと、「朝敵になった頼政に味方することはできません 三井寺を攻めるため馬を一頭頂きたい」とのこと。
宗盛は、秘蔵の煖廷(なんりょう)という馬を与えます。
競は自分の館に火をつけ、三井寺に向かいます。

三井寺では競の身を案じて噂していました。
そこへ競が駆けつけ、仲綱の木の下の替わりに宗盛の煖廷を奪ってきたというので、仲綱は喜びます。
煖廷に「宗盛」という焼印をして、六波羅へ返すのでした。宗盛は怒り狂いました。

朗読について

いろいろと嘘くさい話です。
まさかこんな感情論で謀反は起こさないでしょう。
当時「恥」ということが生死を分けるほど強烈なものだったとしても。

今まで頼政に従っていた競に、疑いもなく 愛馬を与えて野に放つのも不自然だし、そもそもこの章の宗盛はキャラが違うような。
他の章ではここまで意地悪に描かれてはいないです。

宗盛の大人げないイジメっ子ぶりと、最後の「躍り上がり躍り上がり」怒る様子は、なかなか朗読しがいがありました。

競の名は、正式には渡辺の源三滝口競(わたなべのげんぞう たきぐち きおう)といいます。
「競」の一字が、やはり強烈です。
親もさぞ人と競いまくる、血の気の多い男子たれ、と名づけたのでしょうか。

競は、「宮御最期」で最後までヤケクソに戦い、腹をかっきって死んでおります。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落
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