平家物語巻第四より「山門牒状(さんもんちょうじょう)」です。
以仁王が三井寺に逃げ込むと、三井寺は比叡山に協力を求め、書状を送ります。
あらすじ
以仁王が三井寺に保護を求めて逃げ込むと(「競」)、三井寺では会議が持たれます。
結果、清盛の暴悪を戒めるのは今しかないということになり、比叡山の
協力をあおぐことになりました。
書状にいわく、
「以仁王が当寺へ駆け込みましたところ、院より引き渡しを要求してきました。
院宣といっても実質、あの仏敵清盛の命令。従うことはできません。
官軍相手に戦うことになりましょう。どうか協力を願いたい。
延暦寺と園城寺は、今は仲たがっているといっても、根はひとつ。
いわば鳥の左右の翼、車の二つの輪のようなものです、
もし協力いただけるなら長年の遺恨を忘れ、また両寺をひとつとしましょう」
■ 補足 ■
比叡山は正暦4年(993年)、円仁派と円珍派に別れて対立。
円珍派が山を降りて園城寺に入ってから、両寺は対立を繰り返してきました。
比叡山を「山門」、園城寺を「寺門」ということから、「山門寺門の抗争」と言われます。
なお、「三井寺」は園乗寺の俗称です。天智・天武・持統三代の天皇の産湯を汲んだことから「御井(みい)」が転じて「三井」となりました。「三井寺炎上」に詳しいです。
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