若宮出家

平家物語巻第四より「若宮出家(わかみや しゅっけ)」です。 以仁王が討たれると、その子供たちに探索が及びます。 八条女院の女房が生んだ若君は清盛から差出し要求を受けますが、宗盛のとりなしで助命され、僧になります。

平家物語:若宮出家 朗読mp3

あらすじ

源頼政は自害し、高倉宮以仁王は平家軍に討たれました(宮御最期)。

源三位入道頼政の首は郎党の長七唱(ちょうじつ となう)が宇治川に沈めたので、発見できませんでした。

以仁王の首は、長年その御所に立ち寄る人がなかったので本人と確認することが困難でした。
しかし六波羅は以仁王最愛の女房を探し出し、本人と確認しました。

以仁王は方々に若宮(子供)をもうけていました。
八条女院(ワ子内親王)に仕える女房、三位局(さんみのつぼね)との間には七歳の若宮、五歳の姫宮がいました。

清盛は池中納言頼盛を介して八条女院に若宮を引き渡すよう要求します。

八条女院は「乳母がどこかへ連れ去りました」ととぼけますが、清盛は重ねて要求してきます。

頼盛は八条女院の乳母子を妻としていたので、八条女院とは日頃から親しく行き来する間柄でした。
しかしこの時頼盛は別人のように事務的でした。

再三の引渡し要求と、若宮自身も名乗り出たこともあり、遂に身柄を 六波羅に引渡します。

宗盛のとりなしで、命ばかりは許され、出家を強要されます。

仁和寺の御室に弟子入りし、後には東寺の主席僧侶となり、安井の宮の僧正道尊と名乗ったのは この宮のことです。

頼盛の立場

頼盛は清盛の異母弟です。
六波羅の池殿に住んでいたので、「池殿」とか「池の中納言(大納言)」などと呼ばれます。

平治の乱終結後、頼盛の母池禅尼が頼朝の助命を申し出て、死罪になるところを 伊豆へ流すに留めた話は有名です。

平家一門の中では微妙な立場でした。
頼朝挙兵以前から、清盛から白眼視されていました。
政敵以仁王の養い親である八条女院の元に出入りし、その乳母子を妻としたこと、また 後白河法皇の信頼が厚く、法皇の処遇をめぐって清盛と対立していたことなどが理由のようです。

重盛の死後は、ますます溝が深まっていきます。そこへ頼朝の挙兵です。

一門都落ちの際、頼盛だけは「忘れ物を取ってくる」と引き返します(「一門都落」)。
頼朝から「池殿の侍を攻撃するな」と指示が出ているのを頼盛は知っており、あてにしていたようです。

この時頼盛は八条女院に保護を求めていますが、やんわり断られています。
かつて以仁王の若宮を保護してくれなかったことへの禍根があったのかもしれません。

しかし結局八条女院は頼朝や義仲に助命嘆願をしてくれたようです。

一門都落ちの後も頼盛一家だけは平家でありながら頼朝のもとで厚遇を受けますが、 文治元年(1185年)出家します。
何か複雑な思いがあったのでしょうか。

そして翌文治二年(1186年)55歳で世を去ります。

朗読について

宗盛の「貴族のバカ息子声」は、だいぶ板についてきた気がします。
急にトーンが上がるので、勇みすぎて喉を痛めないよう、気をつけています。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落
×

この広告は90日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。