朗読 平家物語平家凋落 横田河原合戦

横田河原合戦

平家物語巻第六より「横田河原合戦(よこたかわらの かっせん)」です。
木曽義仲が信濃国横田河原で城四郎長茂(じょうのしろう ながもち)の軍勢を破ります。

平家物語:横田河原合戦 朗読mp3

あらすじ

都では、平将門・藤原純友追討の例に倣って謀反の輩(義仲)を調伏する祈りが 捧げられますが、担当した神官や僧が謎の急死を遂げます。
神仏も祈りを聞き入れないことは明らかでした。

安祥寺の実玄阿闍梨は鎮護国家の祈りを命じられますが、その報告の目録に 「平氏を調伏しました」と書いてありました。

尋ねられて実玄は、「昨今の有様を見ると、平家こそ朝敵です。 だから調伏したのです」と堂々と答えました。

当然重い処罰が下されるはずだったのですが忙しさに紛れ、 なあなあになっていました。
平家が滅んだ後、頼朝はこの時の実玄の言動を誉め、大僧正に任じたということです。

十二月二十四日、中宮徳子に「建礼門院」という院号が贈られます。

年明けて養和二年、太白(金星)が昴星(すばる。牡牛座の散開星団)に進入します。
四方に蛮族が蜂起し、将軍が勅命を帯びて国を出るしるしであると、天文書には書かれていました。

四月十五日、法華経転読の会が行われ、法皇も参加されました。
ところが、「法皇が山門に命じて平家を討たせるのだ」というデマが流れ、 大騒ぎになります。
重衡が法皇を迎えに上がり誤解とわかりましたが、「天魔のしわざだろう」と 人々は噂しました。

五月十四日、改元して「寿永」とします。
越後国の住人城四郎助茂が越後守に任じられ、助茂を長茂と改名します。
兄助長が謎の死を遂げた折(「嗄声」)、重ねて辞退しましたが、勅命なので従わざるを 得ませんでした。

城四郎長茂は四万余騎を率いて木曽義仲追討のため、信濃国に向かいます。
横田河原で三千余騎の義仲軍と合戦しますが、義仲軍の奇策によって破られます。

このような敗残にも関わらず都では宗盛が内大臣に昇進したり、その昇進御礼の式が行われ たり、全国で反平家の動きが起こっている中、話にならないことでした。

全国の僧や神官たちも、ことごとく平家を背き、源氏に心を通わせていました。
院宣が発布されても、どうせ平家の指図だろうと従うものはありませんでした。

朗読について

木曽義仲の華々しいデビュー戦です。
武将個別の戦いっぷりは平家物語には描かれていませんが、今井兼平も巴御前もさぞ活躍したことでしょう。 そのへんを脳内で補完するのが、楽しいことです。

平家物語の作者は地の文で時々顔を出し、歴史的上の出来事について、人物について、 「あはれなり」とか、「…こそ、あさましけれ」とか評価を下しますが、ここでも容赦 ない毒舌です。

東国・北国の源氏共、蜂のごとくに起あひ、ただ今都へ攻めのぼらんとするに、 かやうに浪の立つやらん、風の吹くやらんも知らぬ体にて、花やかなりし事共、 なかなか言ふかひなうぞ見えたるりける。

平家の危機感の無さにポカーンと呆れてるわけです。いかにも「しゃあない連中やなあ… 話にならんわ」という感じが出るよう、朗読しました。

信濃の横田河原は、この義仲×城長茂戦の後も、大きな合戦の舞台となっています。

応永7年(1400)信濃守護小笠原長秀が村上氏や大文字一揆らと戦った大塔合戦、そして永禄4年(1561)、武田信玄と上杉謙信の間で争われた川中島の合戦です。
(「川中島の合戦」は十二年間、5度に渡って行われ、有名な信玄×謙信戦は第四次です)

そんな歴史ロマン溢れる、千曲川の雄大な流れを心に描きつつ、朗読しました。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落
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