新院崩御

平家物語巻第六より「新院崩御(しんいん ほうぎょ)」です。
高倉上皇が崩御されます。

平家物語:新院崩御 朗読mp3

あらすじ

治承五年の正月が来ましたが、東国の争乱(「富士川」)、南都の焼失(「奈良炎上」)など凶事が重なり、 節会は行われず、内裏は鎮まりかえっていました。

後白河法皇は、「私は前世の善行によってこの世で天皇となった。四代の天皇、二条・六条・高倉・安徳は 私の子や孫だ。なぜ今政務を留められ、空しい月日を送るのだろう」とお嘆きになりました。

同五日、昨年暮れの南都蜂起(「奈良炎上」)の責任を取る形で、南都の僧綱(僧を統べる僧官)が官職を留められ、所領を没収されました。

「初音の僧正」と呼ばれた興福寺別当花林院僧正永円 (こうふくじのべっとう けりんいんのそうじょう ようえん)は、 仏像・経文が煙となったことに衝撃を受けて、程なく亡くなりました。

この永円が「初音の僧正」と呼ばれるようになったいきさつは、ある時ほととぎすの鳴き声を聞いて、

きくたびに めづらしければ ほととぎす いつも初音の 心地こそすれ
(意味)ほととぎすの声は、聞くたびに新しい感動があるので、いつも初音を きくような心地がするよ

さて、凶事が続いたといっても形式的には御斉会(ごさいえ。鎮護国家の祈りの儀式)は行うべき ということになり、北京(比叡山)南都(興福寺)それぞれから僧を召しだして、御斉会が 行われました。

高倉上皇は、去年法皇が鳥羽殿に幽閉されたこと(「法皇被流」)、 高倉の宮(以仁王)が討たれたこと(「宮御最期」)、 都うつり(「都遷」、「都帰」)、それに加えて昨年暮れの奈良炎上(「奈良炎上」)… これらの心労が重なり、寝込んでしまい、同十四日、ついに崩御されました。

比叡山の澄憲法院は御葬送に参列しようと急いで山を下りましたが、すでに 火葬されたことを嘆いて、

つねに見し 君が御幸(みゆき)を けふとへば かへらぬたびと 聞くぞかなしき
(意味)いつも見慣れていた上皇様の御幸であるが、今日の行き先を尋ねると、 二度と帰ることのない死の旅路ということ。なんと悲しいことでしょう。

また、ある女房(建礼門院右京大夫)は詠みました。

雲の上に 行末とほく みし月の ひかり消えぬと 聞くぞかなしき
(意味)雲の上に輝く月のように、末永く栄えると思っていた上皇様でしたのに、 その光を消して、亡くなられてしまった。悲しいことです。「雲の上」は宮中、 「月」は高倉院。「月」と「光」は縁語。

御年二十一歳。賢王として聞こえた高倉上皇の崩御を悲しまぬ人はいませんでした。


平家物語は人物評価が厳しく、悪口ばっかり言ってるイメージがありますが、 この高倉上皇(天皇)については、手放しで絶賛しています。
この後、高倉上皇(天皇)の生前のエピソードが3つ語られます(「紅葉」、「葵前」、 「小督」)

特に「紅葉」は、高倉上皇がこよなく紅葉を愛でられたことについての、風流なお話です。

「雲の上に…」の歌を詠んだとされる建礼門院右京大夫は平資盛との恋の歌を中心とした 「建礼門院右京大夫集」をあらわしています。平家物語の時代のことが、平家物語ほど ドラマチックではない、日常的な視点から語られていて、面白いです。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落
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