奈良炎上

平家物語巻第五より「奈良炎上(なら えんしょう)」です。
以仁王の乱以来、南都(興福寺)と平家の関係は悪化してしました。
平家は南都を攻め、焼き討ちにします。

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あらすじ

今年(治承4年)五月、以仁王が平家に反旗を翻した時、 三井寺と南都(興福寺)は以仁王に助力しました。このため平家が両寺を 攻撃するだろうという噂が立ちます。

ならば先に攻めよと、興福寺が蜂起します。摂政藤原基通が、 「言いたいことがあるなら、法皇へことづけしよう」と言って尽力しましたか、 興福寺は一切聞きませんでした。

有官の別当忠成、右衛門佐親雅らが使いに送られますが、興福寺の大衆に 髻(もとどり)を切られ、逃げ帰ります。

また、南都の大衆は大きな球丁(ぎっちょう。杖で毬を打つ球技)の球を作って、 「平相国の首だ」と称して、足蹴にしました。

平相国清盛という人は、仮にも天皇の外祖父です。それをこのように 罵るとは、天魔の行いとも言うべきものでした。

清盛はこれを聞き、瀬尾太郎兼康(せのおのたろう かねやす)を 検非所に任じ、鎮圧のため南都へ差し向けます。

瀬尾太郎兼康の配下の侍は、内々の取り決めで武装していなかったのですが、 南都の大衆はそれを知らず、六十余人を討ち取って、その首を 猿沢の池のほとりに並べました。

怒った清盛は、頭中将重衡を大将軍とした四万余騎を南都へ差し向けます。

南都大衆は奈良坂・般若寺に城郭を築いて抵抗するも、夜になるまでに破られてしまいます。
坂四郎永覚(さかのしろう ようがく)という悪僧は、小勢ながら よく戦いましたが、平家の大勢に押され、撤退します。

戦いが夜に及び、重衡は火をともすよう命じます。
ところが折からの激しい風にあおられた炎は、多くの寺院に吹きかかり、大火となり、ついには 東大寺の大仏にまで燃え移ります!

興福寺は藤原不比等が建立して以来、藤原氏の氏寺として栄えましたが、 東金堂の釈迦像も、西金堂の観世音も、煙となってしまいました。

東大寺の大仏は、聖武天皇が自ら磨かれたものでしたが、熱のため 溶解し、頭部は焼け落ちてしまいます。
また、多くの経文が消失し、人命が失われました。

二十九日、頭中将重衡が南都より帰還します。入道相国一人は 喜びましたが、ほかの人々は、重衡が伽藍を焼き尽くしたことを 嘆くのでした。

僧兵たちの首は、獄門にすらかけられず、そこらの溝や堀に投げ捨てられました。

聖武天皇は東大寺を建立されたとき、 「わが寺が栄えれは天下も栄え、わが寺が衰えれば天下も衰える」と書かれました。 今後天下が衰えることは、疑いないというものです。

こうして年は暮れ、治承5年が来ます。


冒頭「祇園精舎」で描かれた諸行無常というテーマが、特に色濃く 現れている章です。仏像が焼け、多くの人が煙の中に焼け死ぬ描写は 凄惨を極めます。

平家物語巻第十では、生捕りになった重衡の 救いの物語に、かなりの分量が割かれていますが、 これは、その発端となるエピソードです。

この南都焼き討ち以後、重衡は 「仏敵」という業を背負うことになるのです。

ここでは重衡が自分の判断で焼き討ちを実行したのか、 部下の独断で惨事が起こったのか、 どちらとも取れるような描き方がされていますが、「戒文」における 法然上人への告白、「千手」での頼朝への弁明などを見ると、後者のようです。

「人形劇平家物語」では、焼き討ちの後「私は、大変なことをしてしまった」と 嘆き恐れる重衡が描かれていたような気がします。 物語後半へのつなぎとしては必要な場面だと思いますが、この「奈良炎上」には 重衡のリアクションは描かれていないです…。


posted by 左大臣光永 | 平家凋落
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