千手前

平家物語巻第十より「千手前(せんじゅのまえ)」です。
一の谷で生捕りになった重衡(しげひら)の元へ、頼朝は 千手の前という女房を差し向けます。

平家物語:千手前 朗読mp3(一)
平家物語:千手前 朗読mp3(二)

あらすじ

一の谷で生捕りになった重衡は(「重衡生捕」)、京都から鎌倉へ 護送され(「海道下」)、頼朝と対面します。

南都を焼き討ちにした件(「奈良炎上」)を尋ねられた重衡は、焼き討ちは清盛の 命令でも重衡の咄嗟の判断でも無かったといい、平家の運命の 傾いたことを語り、早く首を刎ねるよう求めます。

その堂々とした態度に、並居る人々は涙を流しました。

頼朝は、伊豆の国の住人狩野介宗茂(かののすけ むねもち)に、 重衡の身を預からせます。

狩野介は湯殿を設け、重衡に入浴させます。 身を清潔にしてから処刑されるのだろうと思っていたところ、 湯殿の戸を開けて二十歳ばかりの女房が入ってきました。

そして重衡の背中を流し、入浴の世話をして帰っていきました。 その優美な物腰に、重衡は惹かれます。 警護の武士に尋ねると、手ごしの長者の娘、千手の前ということでした。

その夜、千手の前は琵琶・琴を携え、宗茂と共に重衡の部屋を訪ねてきます。

重衡は興なげでしたが、千手の前が「羅綺の重衣(ちょうい)たる、情ないことを奇婦(きふ)に妬(ねたむ)(注1)」 「十悪といへども引摂(いんじょう)す(注2)」、 「極楽願はん人は皆、弥陀の名号唱ふべし(注3)」などとを歌うと、 重衡も盃を傾けました。

宗茂も琴を奏でます。それを聴いた重衡は、「この曲は普通には 五常楽というのだが、重衡のためには後生楽と見たほうがよさそうだ(注4)」 と洒落を言い、自らも琵琶を取ります。

夜が更けてきます。千手は「一樹の陰にやどりあひ、おなじ流れをむすぶも、 みな是前先世のちぎり(注5)」という白拍子を歌い、重衡も「灯闇しては、数行虞氏之涙 (ともしびくろうしては、すこう ぐしがなんだ)(注6)」 という朗詠を歌います。

この朗詠の心は、昔楚の項羽が漢の高祖(りゅうほう)に破られた時、 項羽は騅(すい)という駿馬に乗り、最愛の后、虞氏(ぐし)と共に 逃げ去ろうとしましたが、普段なら千里をかける騅が、なぜかピクリとも動きません。

項羽は自らの命運の尽きたことを悟り、虞氏と別れる悲しさに、嘆き 悲しむのでした。

夜が更けるにつれ、灯の火も心細くなり、虞氏は涙を流し、四方に敵の鬨の声が満ちます…

後にこれが詩にあらわされたのですが、今の状況でこの詩を思い出すとは、 風雅なことでした。

翌朝、頼朝は「ゆうべは粋な恋の仲立ちをしたものだな」と千手に笑いかけます。

この後千手は重衡を慕うようになり、重衡が南都に渡されて処刑されると 、出家して信濃国善光寺にこもり、重衡の菩提を弔ったということです。

(注1)羅綺の重衣(ちょうい)たる、情ないことを奇婦(きふ)に妬(ねたむ)

か弱い舞姫にとっては薄衣さえ重く感じる。なぜこんな重い衣を 織ったのか、機織女を恨むほどだ、の意。 「羅綺」は薄絹の織物。「奇婦」は「機婦」で機織女のこと。

「和漢朗詠集」の菅原道真の歌より。

羅綺の重衣たる。情なき事を機婦に妬む。
管弦の長曲に在る おえざることを伶人に怒る


南都炎上の咎を重衡一人に負わせようとしている世の人々を、 舞がうまく舞えないことを人のせいにする無責任な舞姫の姿に 託し、重衡に同情しているわけです。

(注2)十悪といへども引摂(いんじょう)す… 十悪を犯したものでも、阿弥陀仏は極楽浄土に迎えてくださる。

(注3)極楽願はん人は皆、弥陀の名号唱ふべし… 極楽に行こうと願う人は皆、阿弥陀仏の名を唱えなさい。

(注4)五常楽後生楽… 「五常楽」は雅曲の曲名。重衡はそれを自分の後生安泰を祈る「後生楽」という と思いなそうとしたのである。

(注5)一樹の陰にやどりあひ、おなじ流れをむすぶも、 みな是前先世のちぎり

同じ木陰に身を寄せるのも、同じ川の流れを手ですくって飲むのも、 全て前世からの契りである、の意。「説法明眼論」より。 「祇王」「少将都帰」にも、類似の表現が見られる。

(注6)灯闇しては、数行虞氏之涙

「灯暗、数行虞氏之涙、夜深、四面楚歌声」(和漢朗詠集)。 「数行」は、涙が幾筋も流れているさま。「虞氏」は項羽の愛妾、虞美人。 亥下の戦い(前202)に項羽が敗れた時の状況を歌ったもの。


平家物語には中国や日本の古典からの引用が多いです。特にこの章は 千手と重衡の掛け合いという形で、多く古典が引用されてます。

まあ、大雑把にも朗詠や白拍子の内容をつかんでおくと、理解が深まるんじゃないでしょうか。

海道下」における熊野(ゆや)とのからみといい、この千手の前といい、重衡はモテモテです。
「重衡卿は牡丹の花に例えられる」と言ってますし、かなりのイケメンだったのでしょう。


posted by 左大臣光永 | 重衡と維盛
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